人生ゲーム
人生ゲームをしたことありますか?ルーレットを回してコマを進め、人生で起こる様々なことを経験していくゲームです。
二人の子供がゲームをしていることを想像してください。一人は字が読めない小さな子供、もう一人は字が読める年上の子供です。字が読めない子供は相手に読んでもらい、言う通りにします。ところが年上の子供は悪い子で嘘つきでした。書いていないことばかり言ってきます。「10戻れと書いてある」、「財産は没収と書いてある」、「病気で入院と書いてある」・・・・。小さな子供はだんだん悲しくなって、ついに泣きだしてしまいます。それでも年上の子供は容赦なく嘘をつき続けます。「事故に会うと書いてある」「破産すると書いてある」・・・。
分かりますか?嘘つきの子供は悪魔のたとえです。そして字が読めない小さな子供は、聖書を自分で読まないクリスチャン、聖書を自分で調べないクリスチャンです。そういうクリスチャンは悪魔に簡単にだまされてしまいます。気をつけましょう。悪魔はあなたの人生で多くのウソを吹き込んできます。時には聖書さえ使います。ですから自分で聖書を調べて読む習慣を身につけましょう。
実は私は多くのクリスチャンが信じていることと違うことを信じています。例えばこんな感じです。
1. 癒しの時代は終わった。⇒ 癒しは終わっていない。
2. 癒しは賜物がないとできない。⇒ クリスチャンは誰でも癒しができる。
3. 時がある。⇒ 時はすでに来た。キリストにあって神の約束は、すべて「しかり」となった。
4. 導きが来るのを待つ必要がある。⇒ 導きは常にある。待っていないで行動する。
5. 祈りが聞かれるには謙遜になる必要がある。⇒ 敵に対して攻撃的になる必要がある。
6. 罪があると癒しは起きない。⇒ 罪があっても癒しは起きる。
7. 病人に信仰がないと癒されない。⇒ 祈る人の信仰だけでも癒される。
8. 自分は力がない、弱い者。⇒ 新しい創造物。キリストにあって権威と力を持っている。
9. (祈り)神様に願う。⇒ 病気・悪魔・物事に向かって命じることができる。
10. 天から恵みはくだる。⇒ 自分の霊の内から持っているものを出す、用いる。
・・・・
私が信じていることを信仰歴の長いクリスチャンに言うと、たいてい気分を害します。熱心なクリスチャンほどそうです。だから時々黙っていようと思うこともあります。でも彼らが信じていることは他ならぬ私自身が信じていたことです。でも聖書を調べた結果、私はそれらのほとんどを入れ替えることになったのです。それには2年ほどかかりました。今も入れ替え続けています。不愉快に感じるかもしれませんが、でも信じていることを入れ替えたことで、癒しの結果は出るようになりました。
信じることについて大事なことは、絶対的な考え方をすることです。どちらの考えも一理あるから両方の良い点をとろうとか、バランスをとろうとしないことです。神様のみ言葉は絶対だからです。神様のご性質は完全で絶対です。だから私たちも神様のように絶対的な考え方をしていく必要があります。主は私たちに熱いか冷たいかであって欲しいと言われました。ぬるいと吐き出されます(黙示録3:15-16)。み言葉を自分でよく調べ、それについて白か黒かというような絶対的な考え方をして行動していく時、み言葉が働き出します。結果が出るようになります。
癒しが起こらない原因
イエス様は癒しが起こらない原因を2つ挙げています。み言葉が働かない原因は2つだけです。一つは「人間による教え、言い伝え」です。1ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、 2「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。 3イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。 4神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。 5それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、 6父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。 7偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
8『この民は、口さきではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
9人間のいましめを教として教え、
無意味にわたしを拝んでいる』」。
(マタイ15:1-9)(マルコ7章にも同様の記述があります。)
食事の時、手を洗うことは常識です。もっともなことです。それは悪いことではありません。しかし律法には書いてありませんでした。パリサイ人と律法学者たちは神の言葉よりも自分たちの伝統的な教えや言い伝えを優先させていたために、み言葉が働かなくなっていたのです。
こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。
「無にしている」⇒ non effect (KJV)、(ギ)akuroo:力を奪う、無効にする。
常識は良いものです、人による教えも良いものです、でもそこに落とし穴があります。それらによって神の力が働くことはありません。知らず知らずの内にそれらをみ言葉につけ加えたり、優先させていることでみ言葉が働かなくなります。それらを除いてください。み言葉だけが働きます。み言葉は本来それだけで力があるものです。
癒しのために祈っても何も起こらない時、人間のいましめや常識が入り込みやすくなります。「この人が癒されないのは、この人に癒しの信仰がないからだ。」「何か隠れた罪があるに違いない」「断食しないと癒されない」・・・。でも事実はあきらめないでみ言葉に立ち続ける必要があるだけです。だからもし「病人のために祈ったけど癒されません」と言うなら、自分の中に間違った教えや、み言葉以外のものが入っていないか確認する必要があります。それは要塞です(2コリント10:4-5)。それを発見して、排除し、正しい教えが入れば信仰が働くようになります。
■もう一つの原因は「不信仰」です。
14さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、 15「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。 16それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。 17イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。 18イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。 19それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。 20するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。 21〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。(マタイ17:14-21)
20・・・あなたがたの信仰が足りないからである。
この箇所を読むたびに「自分は信仰が足りない」と落ち込んでしまう方はいませんか?私も以前はそうでした。でもここは信仰の量について言っているのではありません。
信仰が足りない ⇒ unbelief (KJV)、(ギ)apistia:不信仰
ここの正しい日本語訳は「不信仰」になります。
では不信仰ってなんでしょうか?不信仰とは何も信じていないこと、信仰がないことだと考えがちですが、不信仰の時でもちゃんと信じていることがあります。不信仰の時でも信仰を持っていることがあります。それは失敗することを信じている、疑いや恐れ、間違ったことに信仰を持っている、それが不信仰です。それが癒しが起こらない原因です。あなたの信仰が足りないからではありません。
信仰の量について言っているのは次の言葉です。
よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。
イエス様が信仰の量について教えたのはこの時だけです。この時一番小さなものをたとえに使いました。からし種一粒ほどのちっぽけな信仰でも山を動かせますと。要するに、信仰の量を心配する必要はないということです。
信者は誰でも、全員同じ量の信仰を持っています。
わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。(ローマ12:3)
信仰の量り ⇒ the measure of faith(KJV)
KJVでは定冠詞theを使うことで、一定した分量であることを示しています。それに神様は人をえこひいきする方ではありません(ヤコブ2:1-13)。ですから信者は全員、同じ量の信仰を持っているのです。もし違いがあるとすれば、それは量ではなく、質の違いです。信仰は筋肉と同じです、使えば使うほど発達します。同じ筋肉でも、ボディビルのように毎日テンションをかけて鍛える人と、そうでない人の筋肉の差は一目瞭然です。大事なことは毎日信仰を使って成長させていくことです。
話を戻します。
21〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。
このマタイ17:21節はよく誤解される所です。ここから「治りにくい病気が癒されるには断食して祈る必要がある」と考えられがちです。でもこの21節は古い写本にはありません。後から加えられた節です。
一方マルコ9:29には同様の記述があります。しかし、それでも断食という言葉が含まれるかどうかには議論があります。
いずれにせよ「このたぐい」とは、てんかんの霊を指すのではなく、「不信仰」を指すと考えるほうが文脈と一致します。不信仰のたぐいは祈りや断食によって追い出すことができるからです。祈りと断食は私たちの肉を抑制し、霊的なことに目を開かせて、不信仰を追い払います。
・イエス様は断食せずに、普通にてんかんを癒していました(マタイ4:23-24)。
イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。 そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。
・イエス様は弟子たちに断食を教えていませんでした。(マタイ9:14-15)
そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。
イエス様はそもそも弟子たちに断食を教えていなかったのですから、てんかんの霊を追い出せなかった原因が断食していないことなら、弟子たちを責めるのは不合理です。弟子たちが癒やせなかった原因は彼らの不信仰でした。
いろいろお話しましたが、要するに、私たちは間違ったことを学び過ぎていて、本来シンプルな神の言葉が働かなくなっていることが原因です。
後半は祈りについてお話します。
命じる祈りをする
12よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしている数々のわざをするであろう。そればかりか、もっと大きい数々のわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。13あなた方がわたしの名によって要求することは何でも、わたしがそれを行いましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。 14あなた方が何事でもわたしの名によって要求するなら、わたしがそれを行いましょう。(KJV:ヨハネ14:13-14)
イエス様は私たちがイエス様と同じわざをする方法、もっと大きいわざをする方法を教えました。それはイエス様の御名によって、悪魔や病気・物事に向かって要求したり、命じることです。イエス様は四福音書の中で癒しのために祈ったとき、神様に「この人を癒してください」と祈ったことは一度もありません。弟子たちもそうしませんでした。権威を使って、病気や体に向かって、なって欲しいことを命じたり、要求しました。私たちもそうすべきです。
もしあなたが神様に乞う祈り、願う祈りしかしていないのであれば、神様があなたのために人生で用意しているものを受け取れない可能性があります。神様は即座に祈りを聞いてくださいますが、私たちには邪魔する敵がいるからです。例えばダニエルが祈ったとき、彼の祈りは初めの日に聞かれていましたが、悪魔が邪魔していたために21日かかりました(ダニエル10章)。私たちには敵がいます、邪魔する者がいます。ですからそれらに向かって命じる必要があるのです。
「じゃあ神様に祈ってはいけないの?」と聞かれることもあります。もちろん私たちはイエス様の御名で父に祈ることができます(ヨハネ16:23)。でも考えて下さい、ハワイに行く方法はボートを漕いで行く方法もあれば、飛行機で行く方法もあります。ボートを漕いでもハワイに着くかもしれませんが、もし飛行機のチケットを持っているなら飛行機に乗ったほうが楽です。チケットを使ってください。権威を持っているなら権威を使ってください。そのほうが早く結果が出ます。
言葉で枯らす。言葉で敵を打つ。
12翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。 13そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。 14そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
20朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。 21そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。 22イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。 23よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。 24そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。(マルコ11:12-14、20-24)
病気は生き物です。ガンは生き物です。ウィルスも生き物です。活動したり、成長するものはみな命を持った生き物です。命を持っているものは殺すことができます。イエス様がいちじくの木に向かって命じたとき、木は即座に死にました。それでも葉はまだ生き生きとしていました。でももう死んでいました。目に見える結果が現れるには時間がかかりました。私たちも同様に、イエスの御名によって命じるとき、即座の結果を見るときもあれば、見ない時もあります。でも何も見えないからといって、何も起きていないわけではありません。時には結果を見るのに時間がかかることもありますが、斧で木を切り倒すように、命じるたびに確実に病気の命を殺しているのです。だからあきらめないで信仰に立ち続けることが大事です。
時間がかかっていても、祈りの時に求めるのはあくまでも即座の結果です。その時信じていることが起きて来るからです。ゆっくりした段階的な癒しを信じているなら、そうなります。だから祈るときは常に瞬間的な癒しを信じましょう。
癒しは戦いです。
キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。(1ペテロ2:24後半)
イエス様が打たれてくれました。病気の代価を払ってくれました。だから私たちは受けなくて良いのです。これが癒しの土台です。この土台にしっかりと立つこと、立ち続けることです。
そして悪魔に怒ることです。不合理なことをしてくる悪魔に対して、腹を立てて怒ること。病気にうんざりして、悪魔に対して怒ることがなければ、決して癒しのために戦おうとはしないでしょう。
癒しの土台を良く理解するなら、敵に対して頭に来るはずです。もうイエス様の打ち傷によって癒されたのに、あの人が病気なのは悪魔が病気を置いているからです。悪魔に対して怒り、もっと攻撃的になりましょう。聖書は「怒っていなさい(Be ye angry.)。悪魔に場所(領土)を与えてはいけない」と言っています(KJVエペソ4:26-27)。
癒しは戦いです。でも勝つか負けるか分からない戦いではなく、勝つことが決まっている戦いです。すでにこの戦いにイエス様が勝利されています。だから結果が決まっている戦いを戦っています。
私たちの敵はすでにイエス様によって敗北し、ボロボロにされ、武装をはぎとられました(コロサイ2:15)。イエス様はフルパワーの敵と戦って勝ちましたが、私たちは弱っている敵との戦いです。だからイエス様は、もっと大きなわざができると言われたのです。
敵はただ抵抗してきます。でも私たちがあきらめないで信じ続け、追い出し続け、命令し続ければ必ずそうなります。私たちには、敵があきらめるまであきらめないという根性が必要です。敵は、クリスチャンが一度祈って癒されないと、すぐあきらめることを知っているからです。だから少しの間踏ん張れば良いことを知っているのです。敵にあなたの根性を見せてやってください。敵はあなたの決意が本物かどうか見ています。絶対あきらめないぞという態度を敵に見せてください。敵に分からせてください。
2020.3.29
Kazumasa Koike