聖書の読み方


旧約聖書  VS  新約聖書
Q. 皆さんは旧約聖書と新約聖書では、どちらを優先して読むべきだと思いますか?

A. 答えは新約聖書です。なぜなら新約と旧約の関係は、実体と影の関係にあるからです。


■実体と影
旧約聖書全体は、イエス・キリストを指し示すものです。旧約聖書は律法と預言者から成っていますが、預言者はイエス・キリストの到来と、キリストがもたらしてくれるものを告げ、律法はキリストの完全な救いの影を現わしています。

律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。(ヘブル10:1)

こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。(コロサイ2:16-17)

律法と十字架の救いは、影と実体の関係にあります。影と実体では、どちらに価値があるでしょうか。もし1000万円もらえるとしたら、皆さんは影と実体のどちらが欲しいですか?もちろん実体を選ぶと思います。
また、影をいくらよく見ても、影から実体を正確に知ることは不可能です。影を学ぶことに時間をかけるよりも、実体を学ぶ方がはるかに効率的です。

旧約聖書は大事ですが、クリスチャンが旧約ばかり偏って読んでいると、あまり良くない影響を受けてしまいます。

■旧約聖書に偏ることの問題
その一つは間違った自己イメージを形成してしまうことです。特に救われて間もないクリスチャンが、創世記から順に旧約聖書を読み始めると、出エジプト記から律法が出て来て、神様のさばきが出て来て、さらに延々と律法を読むことになり、その過程で考え方が律法的になっていきます。律法は私たちに罪を思い起こさせ、自分が義とされた確信を奪おうとします。そうすると、いつまでたっても自分が義とされた確信を持てなくなってしまいます。

なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。(ローマ3:20)

律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。

律法は私たちに罪人意識を生じさせます。さらに神様に対するイメージも偏っていきます。

■厳しい神様  VS  愛の神様

人によって神様のイメージがぜんぜん違うことがよくあります。ある人たちは神様を厳しい神、怖い神だと思い、ある人たちは神様は優しい方、愛の神だと思っています。その理由も聖書の読み方にあります。旧約聖書ばかり偏って読んでいると、神様のイメージは偏ったものになります。神様が愛のお方であるよりも、怖い方になってしまい、神様はゆるす方であるよりも、さばく方になってしまい、怖くて近づきがたい神というイメージを持つようになります。そうなるとアダムが罪を犯した後、恐れと恥を持ってしまい、神様から隠れたように、私たちも神様の前に大胆に立てなくなります。「自分は神様の前に出るのにふさわしくない。神様もきっと私のことをそう思っているだろう」そんな罪責感や劣等感を持つようになり、そうすると「私の祈りなど答えて下さるはずがない」という意識も働くので、祈りが聞かれる信仰も弱くなってしまいます。
実際、自分の信仰に問題があると感じているクリスチャンの多くは、本当の問題は信仰の問題ではなく、神様と自分に対して間違ったイメージを持っている問題です。それが私たちの信仰を大きく傷つけ、台無しにしているのです。まず何よりも神様に対する誤解を解く必要があります。
旧契約の下では神様は「義」と「聖」のご性質しか現わすことができませんでした。人々がまだ罪人だったので、神様が接したいように接することができなかったからです。でも新約聖書を読めば、神様の完全な姿がわかります。

■イエス様は神様の完全な現れでした。

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、・・・(ヘブル1:3)

イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。(ヨハネ14:9)


イエス様は神様の完全な現れでした。神様のご性質のすべてを現わしました。ですから福音書のイエス様を見れば神様がどんな方かわかります。
イエス様は人々を愛し、多くの人の罪をゆるしました。病人に対して深い憐れみを持ち、すべての病人を癒しました。姦淫の罪を犯してしまった女性には、律法学者達は石打ちにするべきだと主張しましたが、イエス様はそうさせず、彼女の罪をゆるし、人生を立て直すチャンスを与えてくれました。イエス様は罪人の家に泊まり、友達になりました。お腹を空かせた貧しい群衆を見て可哀そうに思い、満腹になるまで食事を食べさせました。そうやって地上を歩き、私たちに父がどんな方か現わしてくれました。天のお父さんは愛の方、優しい方、罪を赦す方、人生を回復してくれる方、励ましてくれる方です。
旧約聖書を読むことは大事ですが、正しい視点から読まないと良くない影響を与えます。旧約聖書を読む時は、イエスキリストというレンズを通して読む必要があります。



■福音書  VS  手紙

Q. それでは新約聖書の福音書と手紙では、どちらを優先して読むべきでしょうか?

A. 手紙を優先させる必要があります。


■福音書の大半は旧契約の出来事です。
四福音書の大半は旧契約の時代の出来事です。新契約はイエス様の十字架によって始まりますが、それが出てくるのは、マタイでは全28章の中で27章に、マルコでは全16章の中で15章に、ルカでは全24章の中で23章に、ヨハネでは全21章の中で19章です。ですからほとんどは旧契約の時代の出来事です。福音書は、新約の始まりの書と考えるよりも、旧契約が完結する書と考えた方が分かりやすいと思います。


福音書において、クリスチャンのお手本は唯一イエス様だけです。
旧契約の下ではイエス様以外の人は全員罪人でした。律法の下では罪の覆いだけが与えられており、十字架の贖いによる罪の完全な除去はまだだったからです。ですからイエス様以外、義人はいませんでした。誰も新生しておらず、まだ一人のクリスチャンもいませんでした。ですから福音書では、イエス様以外の誰も私たちのお手本にすることはできません。彼らには良い所がたくさんありましたが、彼らはクリスチャンではなかったからです。
でも手紙は、新約のクリスチャンのために、クリスチャンに宛てて書かれたものです。ですから手紙を優先して読んで下さい。


■福音書において、イエス様は弟子たちにすべてを教えることはできませんでした。

わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。(ヨハネ16:12-13b)


福音書の中で、イエス様は弟子達にすべてを教えることはできませんでした。弟子たちはまだ御霊を受けていなかったので、聞いても理解できなかったからです(1コリント2:14)。イエス様は他にも教えたいことが沢山あったのです。



■イエス様は、それをパウロに啓示しました。
ペンテコステの後、イエス様は教えたかった続きを、聖霊を受けた弟子たちに、特にパウロに啓示しました。パウロの福音はイエス様の福音の続きです。

兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。 わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。 (ガラテヤ1:11-12)


■新しい創造物であるクリスチャンの啓示

パウロは新約の手紙の大半を書きました。彼はその中でイエス様から啓示された福音を明らかにしています。それこそがイエス様が弟子達に伝えたかったことなのです。イエス様が私たちのためにしてくれたことは何か、その結果、私たちがキリストにあって、どういう者とされたのか、何ができるようになったのか、それらが明らかにされています。
パウロの手紙はイエス様の福音の完成形です。それは今まで隠されてきた奥義の啓示、新しい創造物であるクリスチャンの啓示です。

ですから自分がいかなる者かを理解することが重要です。それには、聖書全体を通読する読み方よりも、トピックごとに読む方法をお勧めします。コンコルダンスや聖書アプリなどを使って、新約のトピックやクリスチャンのアイデンティティに関する語句検索を行い(恵み、義、信仰、癒しなど)、その語句が使用されている聖句すべてをリストアップし、原語の正確な意味を調べながら、なるべくゆっくり読み、声に出したり、黙想したり、告白の形にしたりすることが大切です。
聖書の通読は早くたくさん読むことには役立ちます。でもトピックごとに読む方法は面倒で時間はかかりますが、思考の一新に役立ちます。その上で福音書を読むこと、イエス様をお手本として読むことをお勧めします。
また、いつ、誰が、誰に、なぜ、何を、どこで、どのように話したのか、それは十字架の前か後か、それは救われている人に対してか、それともまだ救われていない人に対してか・・・、それらを確認しながら読んで下さい。それによって、得られる結論に違いが出ます。


■福音書のイエス様の教えと、パウロの教えには違いがあります。
福音書においては、イエス様は律法の下にある罪人たちに教えていました。ですからそのすべてを新約のクリスチャンに当てはめることはできません。イエス様は、人が義とされて救われるには、モーセの律法を守り、良い行いをしなさいと教えていました。

するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。 彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。(ルカ10:25-28)


金持ちの青年にもこう教えています。

すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。(マタイ19:16-22)

いずれも永遠の命を得るには、律法を守り、良い行いをするように教えています。実はイエス様は、救われる方法を聞かれた時、十字架の贖いを信じるように教えたことは一度もないのです。


■パウロは恵みを説きました。
一方パウロは、人が義とされ救われるのは、律法を守ることや、良い行いをすることとは全く関係なく、恵みによるのであって、イエスキリストによる贖いを信じる信仰によると説きました。

しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 (ローマ3:21-28)

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。(エペソ2:8-9)

これらはイエス様が福音書で教えたことと明らかに違います。でもどちらもイエス様からの教えです。十字架の前と後では、ルールが変わったからです。今は新約の時代なので、私たちが義とされ、救われる方法は、パウロの啓示によります。


■教えをしっかり分ける必要があります。

注意すべきことは、旧約と新約の教えをしっかり区別することです。そうしないと、人が義とされ救われるには、信じるだけでは不十分で、ある程度の良い行いも必要だと考えてしまうようになります。すると祈りが聞かれることや、祝福を受けることも、信仰以外に良い行いが必要だと考えるようになってしまい、純粋な福音が失われていきます。イエス様は、新しい皮袋(クリスチャン)には新しいぶどう酒(新約の恵み)だけを入れるように注意しました。イエス様の十字架の恵みを信じるだけで十分です。私達は新しいぶどう酒だけを飲みましょう。


2020.3.1
Kazumasa Koike