聖霊のバプテスマ

今日は聖霊のバプテスマについて、基本的なことから「力の解放」までお話しします。


■聖霊のバプテスマを受けることはイエス様の命令です。
 
そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。(使徒1:4-5)

ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(使徒1:8)

聖霊のバプテスマは受けても受けなくても良いというものではなく、また一部の人しか受けられないものでもありません。この奇跡的な神の力を受けることはイエス様の命令です。それは私たちがイエス様と同じわざを行って、イエス様の証人になるためです。人々を愛し、助け、病人を癒し、解放し、イエス様が私たちのためにして下さったことを証明して福音を伝えるためです。人々を救いに導くために、しるしや奇跡を行うためです。私たちはそのために力を受けるように命令されています。



別々の経験
聖霊のバプテスマは新生の後に起こる経験です。救われて聖霊が信者に内住した後、内住していた聖霊が信者から流れ出ることです。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。(ヨハネ738-39a)。

新生と聖霊のバプテスマはほぼ同時に起こることがよくありますが、あくまでも別々の経験です。ですから救われた信者でも、色々な理由から、まだ聖霊に満たされた経験がない方もいます。使徒行伝にもその事例があります。 

(使徒8:14-17)
エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。 ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。 それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。

(使徒19:1-6)
アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。 人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。


聖霊のバプテスマは信者なら誰でも、いつでも受けることができます。以前、まだその経験がない信者のために祈った時のことですが、その人はすぐに聖霊に満たされて異言で祈り出しました。(異言は現れの一つです。)彼は大きな声でしばらく祈った後、「すごく気分が良くなった、スッキリした。」と言いました。その後癒しのために祈ると、一回の祈りで強迫性障害から癒されました。彼は靴や床をべたべた触って、汚れに対する強迫観念から解放されたことを見せてくれました。(聖霊に満たされると癒しを受けやすくなります。)その人はもともと立派な信者でした。ただ聖霊に満たされる方法を知らなかっただけでした。


聖霊があなたがたにくだる時(KJV:くだった後)、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(使徒18)

力を「受ける」のギリシャ語はlambanōで「手で取る、奪う」という意味があります。一度聖霊を受けたら、あとは自分で積極的に力を働かせる必要があるのです。



■何度でも満たされることができる。
 

バプテスマの「baptizo」は「沈める、浸す、水没させる」という意味です。聖霊のバプテスマは、聖霊の中に常に浸されている状態を指します。それは一度経験すれば、ずっと続くというものではありません。そこからまた出てしまうからです。ですから何度でも満たされることが必要です。



弟子たちは何度も聖霊に満たされました。
使徒行伝では同じ弟子たちが何度も聖霊に満たされています。聖霊のバプテスマは一度だけのイベントではありませんでした。

使徒21-4
 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

使徒48
その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ・・

使徒429-31
主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

使徒755
しかし、彼(ステパノ)は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。

使徒13:52
弟子たちは、ますます喜びと聖霊とに満たされていた


 
 
聖霊に満たされる方法 
酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて詩篇とさんびと霊の歌で自分自身に語り主に向かって心を込めて歌を歌い、メロディーを作りなさい。(エペソ518-19 KJV

御霊に満たされて
この箇所のギリシャ語の時制は「継続」で、「御霊に満たされ続けなさい」という命令形になっています。御霊に満たされ続けることは命令なのです。聖書に書いてある命令はすべて、誰でもできる命令しかありません。だから誰でも御霊に満たされ続けることが可能です。

詩篇とさんびと霊の歌で自分自身に語り、
ダビデはよく「わが魂よ、主をほめよ」と、自分の霊から魂に向かって命令しました。ダビデは自分の気分(魂)が落ち込んでいる時や、そうしたくない時でさえ、自分を気分に支配させず、自分自身に向かって主のすばらしさを語り、歌っていたことが伺えます。私たちも同じことができます。自分に詩篇と賛美と霊の歌で語りましょう。

主に向かって心を込めて歌を歌い、メロディーを作りなさい。
それらにメロディーをつけて主に向かって心を込めて歌いましょう。詩篇にメロディーをつけたすばらしい賛美もたくさんあります。

ただし詩篇を使う時は注意が必要です。旧約的な視点やアイデンティティを含む箇所は除外して下さい。例えば「神は遠くにいます」とか「私は罪人です」「私は虫けらです」などです。

・異言で祈ること。
わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝する。(1コリント14:18

「多く」の原語はmallonで、種類というよりも量について示す単語です。つまりパウロは多くの時間、異言で祈っていたことになります。彼はいつも聖霊に満たされていました。異言で強く早く祈ることをお勧めします。



後半は「力の解放」についてお話します。

聖霊の力は服や物に蓄積できる。
神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。 たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。 (使徒1911

聖霊の力は服やハンカチ、物などに蓄積できます。それは自然界の電気や熱、電波の性質と似ている点があります。パウロは色々な方法で聖霊の力を解放していました。私たちは人間のちっぽけな考えで神様が働く方法を制限しないことが大事です。


長血の女性が癒された話。
さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。(マルコ525-34


1.先に結果を決める。
 この女性は結果を言っていました。
せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、言っていた。(KJVマルコ528
 「み衣にさわれば、なおしていただける」と心の内で言い続けていた。(KJVマタイ921)。

言うことは信仰です(2コリント4:13)。この女性は結果を決めて、それからみ衣にさわりました。イエス様はそれを信仰と呼びました。この信仰が神の力を解放したのです。
私たちは何を求めるにせよ、起こることを先に決めているべきです。信仰は選択して、決断することです。「信者が手を置けば病人は癒される(マルコ16:18)」、あなたが決断すれば、その時から信仰によって神の力が働き出します。結果を決めるのは私たちです。

2.どちらかに信仰があれば癒しが起こります。
この奇跡はイエス様の信仰ではなく、女性の信仰によって起こりました。

娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。(34節)

聖霊に満たされた人と病人がいて、そのどちらかに信仰があるなら、信仰の接触によって聖霊の力が流れる例です。

この後、人々は女性と同じことをしました。

するとその土地の人々はイエスと知って、その附近全体に人をつかわし、イエスのところに病人をみな連れてこさせた。そして彼らにイエスの上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいとお願いした。そしてさわった者は皆いやされた。(マタイ14:35-36)

彼らはイエス様に「上着のふさにさわらせてほしい」とお願いしました。彼らは自らの信仰でさわって、全員癒されました。神の力があり、そこに信仰を持つ人がいれば癒されます。


次はイエス様の立場から考えて見ましょう。 私達はイエス様がいつもすべてを知っていて、いつでも病人を癒す準備が完全に整っていたと考えがちです。でもこの時のイエス様は完全に不意をつかれていました。女性の存在にさえ気づいていませんでした。何の準備もできていませんでした。それでも癒しは起きました。なぜでしょうか?それは聖霊はいつも準備ができていて、いつでもどこでもその力は働くからです。


3. 聖霊はいつでも準備ができています。
 私たちはすべての条件が整わないと聖霊の力が働かないと考えがちです。自分の霊的状態、自分の聖さ、病人の罪の悔い改め、病人の信仰、周囲の人々の信仰・・・。でも私たちの準備が完全に整う時が来ることなどありません。だから神様はいつも準備ができている聖霊を送ってくれたのです。 

どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、(エペソ3:20)

人間はすべてに限界があります。知覚にも、考えが及ぶことにも、準備できることにも、人間には限界があります。しかし私たちの内にある聖霊の力は、私たちの限界をはるかに越えて働くのです。それを理解できれば、祈りの時、あれこれ気にする必要は無くなります。神様に癒しをぜんぶ任せて、自分は休むことができるのではないでしょうか?




■どっちが中心?
最後のお話です。昔の天文学では、宇宙の中心は地球で、月も星も太陽もすべてが自分達の周りを回っていると考えられていました。中世ヨーロッパのキリスト教会もこの宇宙観を支持したので、大勢のクリスチャンが自分達が宇宙の中心だと考えていました。ところがその後、地球のほうが太陽の周りを回っていることが証明され、彼らの考えは180度ひっくり返されてしまったのでした。

私たち現代のクリスチャンも、時々そうしてみると良いと思います。私たちはよく「自分がもう少しましなクリスチャンにならなければ、奇跡は起きない」とか、「私がもっと謙遜になるまでは、神様は私を用いることができない」とか、まるで奇跡や癒しは自分が重要であるかのように考えがちです。でもそんな風に考えること自体が高慢です。自分中心です。(ごめんなさい。)私たちは神様の立場から考える必要があります。

自分の愛する子供を他人のためにささげることになった親の気持ちを考えて下さい。あなたが親ならきっとこう思うはずです、「この子の命を絶対に無駄にしない。この子の命は1人や2人分ではない。全人類の分に価(あたい)するべきだ」。神様も同じ気持ちです。神様は愛する一人息子・イエス様の死を見て決意したはずです。「私は絶対に息子の死を無駄にしない。息子の死は全人類の救いに価する」。それが私たちがどんな人間であっても価なしに救われた理由です。私たちにその価値があるかないかではなく、イエス様の支払った代価にそれほどの価値があるということです。

では病気の子どもを持つ親の気持ちを考えて下さい。親は自分がどんなことをしても、子供に健康になってほしいと願っているはずです。神様も同じです。神様はクリスチャンだけでなく、病人が苦しんでいる姿を見て、どんなことをしてでも健康になって欲しいと願っています。それが私たちがどんな人間であっても私たちを通して神の力が働く理由です。たいして聖くない人を通してでさえ、病人が癒される理由はそこにあります。私たちはたいして重要ではありません。神様は誰でも用いることができます。救いも癒しも私たちの完璧さや準備にかかっているのではありません。神様からしたら、私たちがどうであろうと、とにかく使えるものはなんでも使って人々を救いたいと願っているのです。



■自分に死ぬこと。
あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。(ヨハネ330新改訳)

これはバプテスマのヨハネが言ったことです。HEはイエス様、iは自分です。自分が小さくなればなるほどキリストが大きく現れるというわけです。よく聞いて下さい。自分が重要でないと分かれば分かるほど、あなたの内にいる重要な方が現れてきます。玉ねぎの皮をむくように自分中心という皮をむき続けていくこと、すなわち自分に死ぬこと、それが力を解放するために大切なことです。


私たちが神様に用いられるべきでない理由はたくさんあるでしょう。でも私たちがすべきことは、自分がどんな人間か、自分ばかり見ていたらできないことばかりです。むしろ自分がどんな人間か忘れ、自分に注目せず、神様には何でもできることに注目していきましょう。


 2020.2.2
Kazumasa Koike