Ambassadors for Christ キリストの大使

■神の知恵

ロシアのマトリョーシカ人形をご存知ですか?人形を開けると、中に一回り小さい人形が入っています。その人形を開けると、中からまた一回り小さい人形が出てきます。それを繰り返すことで、最初は一つしかなかった人形がどんどん増えていく仕掛けになっています。

神の子供もこれと同じです。十字架の前、地上に神の子どもはイエス様一人しかいませんでした。だから悪魔はイエス様だけが悩みの種でした。イエス様さえいなくなれば何とかなる、十字架につけて殺してしまえば良い、そう考えました。ところがイエス様が十字架にかかって死なれた後、よみがえりがあり、ペンテコステがあり、大勢の神の子どもたちが生まれるようになってしまいました。最初はたった一人しかいなかった神の子が、今ではどんどん増えて、世界中で病人を癒し、悪霊を追い出し、死人を甦らせ、福音を伝えて悪魔を悩ましています。これは悪魔にとって計算外です。悪魔は毎日悪夢を見ています。「あー、こんなことならイエスを十字架につけるんじゃなかった・・・。」

 
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。(1コリント28
悪魔よ、ずっと後悔していろ!



■神様のご計画
29神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。30そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。(ローマ829-30

29節:「あらかじめ定める」の原語は「事前に決定する」という意味です。神様は私たちがイエス様そっくりになるように運命づけました。

■30節:「召し」とあります。多くのクリスチャンが自分は人生で何に召されているのか見つけようとしています。教師か、牧師か、伝道者か・・・。でも召しは一つです。聖書で「召し」という単語が使われる時は常に単数形です( calling : KJV、ギ:klēsis )。クリスチャンは全員イエス様のように歩むよう召されています。そう歩んでいく時、自分が果たすべき職務が明らかになってきます。

■30節:あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。
 
これらの動詞はすべてアオリスト時制なので、すでに起きたことであり、ずっと不変のことです。私たちはイエス様そっくりになるように世の初めから計画され、召され、義とされ、神の栄光を与えられました私たちの霊はもうキリストのような者になったのです。だから後はそう歩むだけです。
 


 
■今日のメイン聖句:2コリント517-21
17だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。18しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。19すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。20神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。21神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。


■17節:だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

人が死ぬといなくなります。それと同じように私たちから古い自分はいなくなりました。私たちは今「新しく造られた者」です。ある訳では「今までに存在したことのない、まったく新しい種族」と訳されています。私たちは新しい人類です。イエス様のような者です。天国に行ってからそうなるのではなく、今この世でそうなっています。

なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。(新改訳1ヨハネ4:17)
 
私たちの問題はこれからキリストのようになろうと努力することです。自分の足りなさを見て、それを行いで埋めようとすること、それが私たちの問題です。律法を守ったり、罪を犯さないように努力したり、断食したり、様々なタイプの祈りをして、努力してしまうことです。これらはどれも良いことですが、そうすればそうするほど本来の姿から遠ざかっていきます。聖書は恵みを得るために行いに頼ることを「死んだ行い」と言っています(ヘブル61)。

だまされないで下さい。自分は足りない、十分ではない、という考えは悪魔から来ています。エデンの園で悪魔がアダムとエバに言ったことを覚えていますか?「この木の実を食べれば神さまのようになれますよ。」と教えました。でも二人はすでにそのような者に創造されていました。悪魔のやり方はいつも同じです。もうすでにそうなっているのに、まるでなっていないかのように語りかけてきて、何かをさせようとします。二人は悪魔の言うことをした結果、すでにそうなっていたものを失ってしまいました。

努力するのは良いことです。でもキリストのようになるために自分でできることは何もありません。私たちは努力による進化論的な考え方を早く捨てて、神様による創造を信じる必要があります。神様はすでにあなたの霊を一瞬でキリストのような者に創造してくれました!後はそのように行動するだけです。

敵の狙いはライオンに自分は猫だと教え込んで、猫のような生き方を一生させておくことです。でももしライオンがライオンのように歩み出したら何が起きてくると思いますか?最初はゆっくりです。最初は転んだり、つまずいて失敗ばかりします。でも転んだからといって、ライオンが猫になるわけではありません。ライオンはライオンのままです。だんだんライオンらしくなってきます。「ガオーッ!」敵は恐れて逃げて行きます。ではもしクリスチャンがクリスチャンのように歩み出したら何が起きてくると思いますか?周りのクリスチャンからあやしまれます。「あの人頭がおかしくなったのかしら?」「あぶない人だ」そう言って逃げて行きます。

 


■18節a:しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。⇒ そして、すべてのものが神から出ている。(KJV)

私たちは自分の霊から神様のものを出すことができます。
祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。(ヨハネ737-39

イエス様は、信者の腹(霊の注ぎ口)から生ける水、つまり御霊が川となって流れ出ると言われました。一度聖霊を受けた信者は、自分の霊から御霊の川を流し出すことができるというわけです。この「川」という単語は複数形(川々:rivers)です。それは御霊が複数の現れになって流れ出ることを示しています。

7各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。8すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、9またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、10またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。11すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。(1コリント127-11

御霊は一つです。でもその現れは複数です。それが「川々」になっている理由です。御霊の現れはその時の人々の必要に応じた現れになります。「賜物」の原語は「カリスマcharisma」で「好意」という意味です。また11節の「思いのままに」は、「喜んで」「望んで」という意味です。要するに御霊は人々のためにいつでも必要なご好意を現したいと願っているのです。ですから「自分には癒しの賜物がない」と落ち込む必要はありません。御霊を持っているなら十分です。必要のある人の前に立って下さい。あなたが病人の前に立てば癒しを、励ましが必要な人の前に立てば励ます言葉を、聖霊が与えてくれます。

聖霊はギリシャ語でパラクレートスと言います。それは「助けのために傍ら(かたわら)に呼ばれた者」という意味です。その名前の通り、聖霊の役割は私たちを助けることです。それなら主体的に行動するのは私たちということになります。私たちが行動すれば聖霊がサポートしてくれます。でも私たちが行動しなければ聖霊がサポートできることは何もありません。先に行動するのは私たちです。

私たちから神様の力が流れ出るのを制限しているものは、私たちの罪でも悪魔でもありません。それらの問題はすべてイエス様によって完全に解決されています。問題はあと一つだけです。それは私たちの頭の中にある聖書通りでない思考です2コリント10:5)。敵が私たちの頭の中に築いた要塞です。自分では発見しにくいものですが、思考からそういうものをどんどん取り払っていくなら、神様の力が流れ出るようになります。




■新しい皮袋
神様は私たちに御霊を与える前に、私たちを完全な者にしなければなりませんでした。そうしなければ新しいぶどう酒を注ぐことができなかったからです。
新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたら、古い皮袋は破裂してしまいます。新しいぶどう酒は発酵を続けていて、ガスを出しています。そのガスが古く硬くなった皮袋にいっぱいになると、圧力に耐えられず破裂してしまうのです。

古い人も同じです。もし私たちが古い人のままで聖霊を注がれたら死んでしまいます。旧約の人達は神の霊に不用意に近づくと死んでしまいました(サムエル記下6:6-7)。彼らはまだ全員罪人だったからです。古い皮袋のままだったからです。だから神様は私たちに聖霊を与えるためには、先に私たちを義とし、完全な者にして、新しい皮袋に創造しなければなりませんでした。考えて見て下さい。あなたが御霊を受けても今こうして生きていられるのは、あなたが新しい皮袋になっている証拠です。あなたが義とされ、救いを受けている証拠です(エペソ11314)。さらには聖霊の力を使える者にされている証拠なのです。
  

■命の御霊の法則
ですから旧約と新約で大きく変わったことの一つに命の御霊の法則があります。旧約の時代は、人が汚(けが)れたものに触れると、その人が汚れてしまいましたが、新約の時代は、聖霊に満たされたクリスチャンが汚れたものに触れると、汚れたものが滅ぼされ、清められていくようになりました。



それが私たちが病人に手を置く理由の一つです。私たちが触れるなら、聖霊も同時に触れることになるからです。聖霊が触れれば病気とかウィルスとか、汚れたものは滅ぼされ、清められていきます。悪霊は去って行きます。これが命の御霊の法則です。私たちが汚れるのではありません。もはや罪と死は私たちを支配することはできなくなったからです(ローマ82)。だから私たちの仕事はいつも聖霊に満たされ続けていることです(エペソ5:18)。

人間関係にも同じことが当てはまります。クリスチャンは未信者と接することを嫌がったり、臆病になる必要はありません。あなたは誰と接していても、清くいることができるからです。むしろあなたから影響を受けて、周りの人々が清く変えられていきます。私たちはそういうメンタリティを持つべきです。私たちは地の塩です。


■18節b: 神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
 
「和解」という言葉には、和解以上の意味があります。


「和解:reconcile」には「食い違いがあるものを一致させる」という意味があります。よく聞いて下さい。もし私たちの現実とイエス様に食い違いがあるなら、つまり私たちの現実と神の言葉に食い違いがあるなら、その理由はいつも同じです。私たちが神様の言うことを言っていないからです。例えば「ああ私は風邪をひきそうだ」「私はインフルエンザにかかるかもしれない」そうやって、神の言葉と違うことを言っているからです。あなたは自分が言うものを手に入れます。それが食い違いの原因です。

敵は考えを入れて来ます。それを私たちに語らせて許可を得るためです。敵には何の権威もないからです。こういう否定的な言葉は悪魔に働く許可を与えます。悪魔はほんの少しの痛みと思いを与えれば、クリスチャンがすぐ否定的な言葉を言うことを知っています。「ガンになったかもしれない」「長生きできないかもしれない」。だから私たちが最初にすべきことは口を閉じることです。次に、自分について聖書に書いてあることを口で言い始めることです。

「主の打たれた傷によって私は癒されました」
「どんなものも私に害を及ぼすことはできない」
「私は天のあらゆる霊的祝福で祝福されている」
「神はご自身の栄光の富の中から、私の必要をすべて満たして下さる」
信仰の言葉によって神の力が働きます。でも否定的な言葉は悪魔に働く許可を与えます。信仰の言葉を言い続けて下さい。信仰に固く立って言い続けて下さい。そうすれば変わってきます。現実が神の言葉に一致してきます。例えばこの部屋の温度が10だとします。それは「事実」です。でもあなたがエアコンを20にして動かせば事実は変わります。事実は変化するものなのです。み言葉は事実よりもさらにまさったもの、「真理」です。事実は真理に勝てません。事実はある時点で必ず真理に取って代えられます。そのためにはあなたが信仰に固く立って口で言い続けることです。そうすれば事実が真理に一致してきます。これが「食い違いを一致させること」です。これが「和解」です。

          


19-21節:19すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音(ことば)をゆだねられたのである。20神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者(大使)なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。21神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

神さまがイエス様の中でしていたことは「和解」でした。言い換えると地上と天国の食い違いを一致させていました。天国に罪人はいません。天国に病人はいません。天国に貧しい人はいません。神さまはイエス様を通してそれらの食い違いを一致させていました。

イエス様の方法はいつも権威ある言葉で命じたり、宣言することでした。そうやって地上に神の国を現わしていました。そして今度は神様はイエス様に代わって私たちの中で和解の働きをなさるのです。だから私たちもイエス様のように行動して和解の言葉を宣言し、地上を天国に一致させていきましょう。
「神様はあなたのすべての罪をイエス様の上に置かれました」
「あなたの罪はゆるされました」
「あなたは義とされました」
「あなたの病気は主の打ち傷によって癒されました」

私たちはそうするためにすべての権威を授けられたキリストの大使なのです。

神さまは今も世界中にいるキリストの大使達を通して和解の働きを続けています。彼らは病人を癒し、解放し、人々を救い、困っている人を助け、貧しい人に与え、服のない人に着せ、人々を愛することによって地上に天国を現しています。神様に感謝します。ハレルヤ! 



 2019.12.29.
Kazumasa Koike