御霊に導かれる

皆さん、胸に手を当てて考えて下さい。気分がのらない時、神様のせいにしたことはないでしょうか?祈り、礼拝、伝道、仕事、部屋の掃除・・・。「何だかやりたくない」と思った時、「導きではありません。」というフレーズで片付けてしまったことはありませんか?クリスチャンにとって、これほど霊的に聞こえる便利な言い訳はありません。自分がすべきことをしない責任を、たったひと言でぜんぶ聖霊のせいにすることができます。でも私たちがそうする時、本当は御霊に導かれているのではなく、一新されていない思いや気ままな感情(魂)に導かれています。
私にも心当たりがあります。一緒に悔い改めましょう。この言い訳を使うのは今日で終わりにしましょう。


そもそも御霊が私たちを導く方法は「あれをしなさい」「これをしてはいけない」といつも指示したり、ロボットのようにコントロールして物事を行わせようとするものではありません。もし導きがそういうものなら、導かれる人には何の責任もないことになります。信仰だって必要ありません。私たちは御霊に導かれて歩むことがどんなことか、よく理解する必要があります。




私たちはよく導きを待っています。でも本当は待っているのは御霊のほうです。聖書は私たち神の子はいつも御霊に導かれていると言っているからです。ローマ814節をギリシャ語の時制に注意して訳すとこうなります。

神の御霊に常に導かれている者は、誰でも神の子です。(ローマ814



つまり神の子は誰でも御霊に常に導かれているのです。24時間365日、導きは常になされています。だから後は私たちが行動するだけです。御霊はそれを待っています。

よく誤解されがちですが、このみ言葉は何か特別な導きを感じたり、声を聞いたり、幻を見るようなことについて言っているのではありません。この8章の文脈は、肉の行いを殺して御霊に導かれて歩むことについてです。私達が肉の行いを殺しているなら、肉が私達を導いていないので、御霊に導かれて歩むことになる、そういうことを言っているだけです。
もともと新約聖書には導きを待ちなさいと言っている箇所はどこにもありません。ですから特別な導きがいつも必要というわけではないのです。声があること自体はすばらしいですが、声があってもなくても聖書に書いてあることを行いましょう。聖霊が私たちを導く第一の方法は聖書を通してだからです。


聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。(2テモテ3:16

聖書は約40人位の人によって書かれましたが、すべて神の霊感を受けて書かれたものです。聖書の作者は聖霊です。

天であかしするものは父、み言葉、御霊の三つであり、これら三つは一つです。(1ヨハネ57 KJV)

聖書は父と御霊に完全に一致しています。

ですから御霊に導かれたいなら、特別な導きを待っていないで、聖書に書いてあることを行いましょう。聖書にしなさいと書いてあることは、常に御霊の導きです。「時」を待つ必要はありません。聖書に書かれた時点で「時」は来ているからです。多くの場合、聖書に書いてある導きを行っていけば、聖書に書かれていない具体的な導きも与えられます。それが聖書のパターンです。
 



旧約と新約における導き方の違い。

神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。(ヘブル1:1-2

旧約の時代は神と人の間には罪の隔たりがあったので、神様は預言者たちを通して先祖たちに語りました。モーセなど特別な人を通して語り、導きを教え、物事を行わせました。でも新約の時代は、御子(=聖書のみ言葉)によって私たちに語る方法に変わっています。
そして素晴らしいことは、新約の信者の内には神の御霊が宿っていることです。それによって神様は私たちの内に働きかけて、み言葉に基づいた聖書的な願いを起こさせ、物事を行わせて下さるのです。

神はあなた方の内に働きかけて、願いを起こさせ、神の喜ぶことを行わせて下さるからです。(ピリピ213KJV)


よく聞いて下さい。私たちが新生しているなら、私たちの内に聖書的な願いが起きる時、御霊がそれを行うように導いています。新生した人は、自分が思っている以上に神様と一つになっているからです。

私たちは主と一つの霊です。ぶどうの木と枝のように継ぎ目がない一つになっています。神様が感じることは私たちも感じます。神様が困っている人を見て助けたいと感じれば、私たちも助けたいと感じ、神様が病人を見て憐れみを感じるなら、私たちも憐れみを感じます。神様と私たちは一つの霊になっているからです。ですから私たちの内に聖書的な願いが起きる時、御霊が私たちを導いているのです。





ガラテヤ5:16-24
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実(pistis 信仰)、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。


この「実」という単語はギリシャ語のkarposで、「~から引き起されるもの、~の影響を受けて生じるもの」という意味です。つまり御霊によって歩むとは、言い換えれば、御霊から引き起こされるこれらの9つの実の影響を受けて行動に至ることです。例えば、こんな感じです。
「愛」なら、「彼は愛に影響されて、貧しい人々を助ける行動に至った」
「喜び」なら「彼は喜びに影響されて、神様を賛美する行動に至った」
「信仰」なら「彼は信仰に影響されて、病人に手を置く行動に至った」



このように御霊から生じる願いを行動に移している時、律法も守っていることになります。これらを罪に定める律法など存在しないからです。また私たちがそう歩んでいる時、自動的に「肉の行いを殺している」ことに気づくと思います。御霊の願うことをしていれば、決して肉の欲を満足させるようなことはないからです。


わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。(ガラテヤ516


ここのポイントはさまざまな肉の行いを殺すことにあれこれフォーカスするより、御霊の実をむすぶことにフォーカスしていくことです。そうしていけば決して肉の欲を満たすことはありません。すべきことをして、忙しくしていましょう。そうしていれば、すべきでないことをする暇は無くなります。でも導きを待ち続けているなら、時間を持て余し、すべきでないことをしてしまいます。




最後に。

聖霊は私たち神の子を常に導いています。あなたの心に聖書的な願いが起きたら、それは御霊の導きです。行動しましょう。聖霊は願いだけ起こさせておいて、助けてくれない方ではありません。あなたが行動すれば、必ず聖霊が助けてくれます。

聖書に書いてあることを行いましょう。聖書には出て行きなさい、福音を伝えなさい、病人を癒しなさい、と書いてあります。私たちが行動するなら、たとえ失敗しても神様がカバーしてくれます。失敗を恐れないで行動していきましょう。
2019.11.24
Kazumasa Koike