妻が新しいiPhoneを買いました。新しいiPhoneには顔認証とか、アップルペイとか、最新のカメラなど、新しいアプリが入ってます。それらの新しいアプリを使うことで、今までの古いiPhoneではできなかったことができるようになります。
クリスチャンも同じです。新しい人には新約聖書から新しいアプリを入れる必要があります。それは「神の子」とか「義人」とか「聖徒」のようなアプリです。それらを使うことで、旧約のアプリではできなかった生き方ができるようになります。ですから旧約聖書からダウンロードした今までの古いアプリは削除して下さい。それらは新しい人にはもう当てはまらない、役に立たないものになったからです。
古いアプリの一つは、「神様は天にいる」というアプリです。それは「神様は天にいるから、何でも神様にお願いしなければならない。」「いちいち神様にこれがみ心かどうか聞かなければならない。」「何でも神様にやってもらわなければならない。」というアプリです。でも新約のアプリは、もっと良いアプリです。
それは神様は天にいるだけでなく「私たちの内にもいる」というアプリです。「キリストが私の内におられる」「イエス様が私たちの内に来られた時、私たちが勝利者として歩むために必要なすべてのものを持って来てくれた」というアプリです。だから私たちは神様にいちいち「み心」を聞くのではありません。私たちはキリストの思いを持っています。聖書も与えられています。私たちは何でも神様に「やって下さい」とお願いするのではありません。私たちがイエス様の代理人として行動するのです。私たちが地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは天でも解かれるからです。私たちが天にあるものを地上にもたらすのです。私たちがイエス様の御名によって病人を癒し、悪霊を追い出すのです。私はもう古い生き方をしたくありません。古い生き方にはうんざりしました。もう古いアプリは使いません。新しい生き方をします。イエス様が内におられるからです。ハレルヤ!
告白しましょう!
「私はイエス様の代理人です。」
「私はイエス様の代理人です。」
「私がこの地上でみ心を行います。」
今日は「権威にあって歩む」というテーマでお話しします。私たちはイエス様の権威にあって歩みます。はじめにイエス様の権威にはどれだけの権威があるのか見ていきましょう。
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 (マタイ28:18-20)
「いっさい」とは「ぜんぶ」という意味です。権威はイエス様にぜんぶ授けられました。それなら悪魔にはどれくらい権威が残っているでしょうか?ゼロです!やったー!悪魔は何の権威も持っていません。私たち自身にもありません。イエス様がぜんぶ持っています。イエス様はそれを私たちに授けて下さったのです。
御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。(ヘブル1:4)
(G2816 – klēronomeō:相続として受け取る。)
そして次のみ言葉は私たちのことです。
もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。(ローマ8:17)
私たちはキリストと共同の相続人だと書いてあります。イエス様が相続したものは、私たちも共同で相続しました。私たちはイエスの御名を正当に相続しているのです。
「共同相続人」とは、例えば2階建ての家を2人で相続したら、1階と2階に分けて相続するのではなく、そっくり家一軒を共同で相続することです。だから相続財産は少しも減りません。ぜんぶ使うことができます。しかもいちいち許可をもらわなくても、自分の意志で自由に使うことができます。
3つ目のポイントです。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力(権威)を与えたのである。(ヨハネ1:12)
(G1849 - exousia:権威)
神の子になるには権威が必要でした。権威は神の子のアイデンティティの一つだからです。神の子であるアダムは権威によって地上を治めていました。
神の御子イエス様も権威にあって歩んでいました。
神の子に権威は不可欠です。権威がなければ神の子とは言えません。だから神様は私たちに神の子となる権威を与えてくれたのです。そもそも人間が創造された目的は、神様がつくったすべてのわざを支配することでした。ですから私たち神の子が権威にあって歩むことは自然なことなのです。
では最後のポイントです。権威にあって歩むには、権威とはどんなものかを理解する必要があります。
さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。(マタイ8:5-10)
百卒長がイエス様に「来なくても良いです」と言った理由は、イエス様が権威によって悪霊を追い出したり、病人を癒していたことを知っていたからです。だから彼は言葉だけで僕が治ると知っていたのです。イエス様は百卒長の信仰に、これほどの信仰を見たことがないと感心されました。彼の偉大な信仰は権威を良く理解していることに秘訣がありました。百卒長が理解していた点は次の通りです。
1.「わたしも権威の下にある者です」
百卒長は自分も権威の下にあることを知っていました。自分は上官である千卒長、ひいてはローマ皇帝の権威の下にあること、そしてそれは自分自身の権威ではなく、上からの権威であり、百卒長というポジションに与えられていることを理解していました。私たちも自分が神様の権威の下にあること、そして自分自身の権威ではなく神様からの権威であること、そして神の子というポジションに権威が与えられていることを理解することが大切です。
2.「わたしの下にも兵卒がいます」
百卒長は自分の権威の下に誰がいるかを知っていました。クリスチャンも自分の下に誰がいるか知ることが大事です。それは悪魔、悪霊、病気です。(天使もそうです。)彼らは私たちの下にいます。
3.「ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」
自分の権威の下にいる者には、命じれば従うのが当然であることを知る(信じる)ことです。自分の権威より下にいる者には、「行け」と言えば行く、「来い」と言えば来る、「こうしろ」と言えばこうする、それが当然だと知る(信じる)ことです。アーメン!
権威は人を支配するためのものではないことに注意して下さい。クリスチャンは人に仕えましょう。でも敵には命令して下さい。「イエスの御名によって出て行け」と言うなら悪魔は出て行きます。他に選択肢はないからです。ハレルヤ!
2019.10.27
Kazumasa Koike